医療制度研究会 〜21世紀の医療を共に考える会〜

第8回 21世紀に向けた病院経営 < 第1回 〜 第10回 > 第12回 現代医療の歴史的考察−日本の医療を問い直す

講演会

●第10回医療制度研究会講演会講演要旨

「カルテ開示の法的側面」


三宅坂総合法律事務所 弁護士・医師・ニューヨーク州弁護士 児玉 安司 先生

「医療訴訟におけるカルテ記載」

1.契約
 カルテは診療契約において。契約内容が適正に履行されたかどうかを証明するためにきわめて重要な書面である。契約書という観点から考えると、外国と日本とで、作り方にそれぞれ特徴がある。米国の契約書の特徴は長く、種々の事柄がしっかりと(悪いことも含めて)書いてある。リスクを共有認識としてすべて書き上げる、悪いことが起こる可能性もすべて共有しているのだから信頼して契約できるという考え方である。日本人が作る契約書は、何か問題が起きた時にgood faith(誠実に対処)というような契約条項の表現が多い。流暢な英語で書かれていても日本人が書いたものとすぐにわかる。日本人は悪いことは書きたくないというメンタリティが強い。
 外国の契約書の原形は、神と個人とのあいだの契約である聖書である。この点日本人は契約という習慣をもっていないともいえる。米国的契約は契約の中にこそ信頼関係があるというものであり、日本的契約は契約書の外側に信頼があるところが特徴である。

2.日本の診療録の特徴
 個人の意識が希薄な日本人は家族、時には企業の中でさえプライバシーが守られない。日本では企業の中で病名や病状、予後なども情報が洩れる場合あるが、米国で同じことが行われれば犯罪である。
 日本医師会では15才でカルテ開示の権利をわけているが、米国では実際に患者さんが情報を求める状態を人種や年齢により詳細な検討を行っている。例えば、韓国やヒスパニックでは家族に相談することが多いなどである。
 日本のカルテはあうんの呼吸で書かれていて、書きっぱなしのカルテや大事なことを書いていないカルテが多い。しかしいったん訴訟になれば、言葉になっていないことは全く意味をなさない。事実とは異なる鑑別診断だけで、その後の処置が書かれていない記載(書きっぱなしの記載)は、そのとき診断はしていたが治療を怠ったと取られてしまうおそれがある。

3. 日本人の裁判観と医療訴訟
 裁判は外国から輸入されたシステムであり、当事者主義である。裁判官は私知の排除(たとえ自分で真実を知っていても個人的知識に基づく裁判を行ってはならない)が原則で、原告と被告のdebate(証拠;言葉のやりとり)で判断することが原則となっている。しかし日本人には、私知そのものを根拠にした”遠山の金さん”が裁判のイメージになっており、本来行なわれている裁判とは掛け離れている。
 カルテの記載で重要なことは、いかに事実を言葉にしてカルテに記載するかであり、言い換えれば言葉にされないものは事実ではないということである。キリスト教が基盤になった欧米の文化は聖書に代表されるように、言葉によって刻まれた文化であり、言葉以外のものに何かを求める我々の文化との間にギャップが存在する。訴訟を経験する医師が一様に感じることは、誠意を尽くして一生懸命にやったことを理解してもらえない、この気持ちを裏切られたなどであるが、これらは言葉の外の問題、つまり心の問題と、言葉によって示されたことが事実という認識のギャップによって生じるものである。

4. 裁判を意識したカルテの記載
 裁判の全プロセスに要求されることは、大前提として医学文献という言葉に書かれた知識すなわちEvidenceがあること、小前提として患者のそのときの症候がカルテに記載されていること、診療はそれを適応して行われたという三段論法が成り立っていることであり、これが有れば訴訟は楽に進行する。EBMの議論が近年盛んになり、これが訴訟の世界にも入ってきている。医師の誠意や経験に基づく知見は裁判上反映されないことが多い。これらは輸入物の価値観であり、我々の考え方との間にギャップがあるが、主要な考え方になっている。
 欧米に代表されるキリスト教世界では言葉にされないものは事実ではない。事実は必ず書かれるべきであり、書かれたものこそが事実であるという考え方が基本といえる。

5.インフォームドコンセントの考え方
 インフォームドコンセントを例に取れば、「悪い結果になった場合の話をして患者さんを脅かしても仕方がないではないか」という考えに対して、悪い結果のすべてを想定して、もしそうなったらどのように回避するということを提示してこそ本当の信頼関係が成立するという考え方になる。卑近な例では、欧米式ではアイラブユーと言ったから愛しているのであり、言わなければ愛していないということになる。言葉には出さない愛情というのは我々の文化にのみ存在するといえる。事実を言葉にして認識する、ある意味ではアメリカナイゼーションともいえる考え方であるが、医師も意識してそういうものにあわせていくことが必要な時代になっている。訴訟は不愉快なものと感じるのは、言葉にしないで暗黙の了解を得ていたものが、言葉こそが事実であるという世界に引き込まれたことによるものが大きい。コミュニティーが崩壊し、一見さんが基本になる社会では、支えになるのは言葉、強く支えになるのは書かれた言葉である。

6.カルテ記載で注意すること
 カルテの記載の中で裁判上注意しなければならない点をひとつ紹介する。それは後からカルテを書き換えることの危険性である。
 裁判の課程で、過失があったかどうかを認定するのに、予見可能性と回避可能性という二つのことが論議される。予見可能性は、その時点で診断できたかということであり、時系列に見れば、最初は0%、結果が確定した最後、例えば死亡時には100%ということになる。回避可能性という視点で見れば、予見が出来ない病初期には回避可能性は高率であっても、時間が経過し、予見できる時期が結末に近ければ近いほど、回避可能性は少ない。予見可能になった時期が結末に近ければ、回避処置が行われなくても過失なしといえるが、病初期から予見できて、回避が行われなかったという場合は過失ありということになる。
 あとからカルテを書き換えたときにはどうなるか、事故が起きたあとでさかのぼってカルテを整備する操作が行われ、結果を知ったあとで事前の病態が書き加えられたとすると、予見可能性がある時刻はどんどん早期にさかのぼる。したがって回避処置がとられたとしても、そのタイミングは遅れたととられる危険性が大きくなる。気がついたときには死んでいたというのは無過失、あとから思い出した症候が、さかのぼって書き加えられていた場合には、同じ事故でも早期の予見可能性が高いとされ、過失と認定されることになる。アメリカのERでは、その瞬間に医師がいったことと、やったことをそのまま記載する係りを付けることが常識になっている。裁判官も、結果から判断するのは易しく前もって予知することは難しいことは理解している。カルテをあとから書き直すのは危険な記載となることを知っておく必要がある。

7.質疑応答より注意事項を抜粋
1)ホワイト厳禁
 白の修正液で修正したカルテは厳禁。線をひいて修正し修正者のサインを入れる。修正された内容は事実に近づく方向で訂正された事が一目でわかることが必要。

2)Incident reportとカルテとの関係
 患者さんとの関係の文書(カルテなど)と病院内での会議録などの文書(Risk management)は異なる。→文書提出命令の範囲には入らないと考えられる。

3)米軍病院研修中の出来事
 児玉氏が米軍関係の病院で研修中に優秀な同僚が体験した話し。ある日の早朝その同僚は、指導医との回診が行われる前に受け持ちの病人を独りで回診し、カルテにPOS形式で多くの鑑別診断を詳細に記入しておいた。指導医は回診の時にこれを見て烈火のごとく怒り激しく叱責された。
 指導医の発言は以下のようなものであった。もし記載された鑑別診断のような重篤な状況が、そのときに存在すればすぐに指導医に連絡して行動を起こさなければならない。カルテに鑑別診断が書かれたということは、その時点でその疾患を想定していたことになる。想定したならば直ちに治療などの処置が取られるべきであり、回診までの時間経過の中で指導医への報告が無く、治療が遅れたととられれば、指導医の自分が訴えられるばかりでなく、カルテは、診断はしていたが治療をしていなかったという証拠を提供することになる。
 カルテには事実を記載することが重要で、同時に治療(行動)を伴わなければ全く意味がない。書きっぱなしカルテは無意味であり、大事なことを書いていないカルテも意味がない。

4) 隠そうとするとかえってひろまる
 医療事故は隠そうとするとかえってひろまる!!

5)たとえ医療上にミスがあっても訴訟になることはそう多くはない
  訴訟になるのは被害が病院職員の態度に怒りを感じたときに起こされる。

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